人生の傍観者
スクール
敬愛する心理臨床家はたくさんいるけれど、皆藤章氏の京都大学の最終講義は、何十回と見ました。
見るたびに自分の中に浸透していく様な気がします。
その最終講義の中での一節で
かかわらなければ路傍の人
という言葉に強く感銘を受けました。
この言葉があらゆるシーンで結びつきます。
傍観者でいる限り、道ですれ違うただの人。関係部外者。
他人に対しても、自分の人生においても。
仕事柄、色んな場面でその方にとっての成長 というシーンに立ち会わせていただきます。
私が成長をさせるというのではなく、その方がご自身で成長されていく。そんな時間の流れにご一緒させていただく事が多いのですが。
自分のまわりで流れていく時間や経験も、
ただ流れていったり、その場に居合わせたりしている時と、
自分にとっての意味合いを考える時とでは、
その方の成長は明らかに異なっていく様に思います。
人は、自分を守る機能として、防衛機制があります。
自分自身や外的な攻撃から心を守るために人間に備わった能力ですが、その中に合理化 があります。
満たされなかった欲求に対して、適当な理由を付けて正当化しようとする事。
ものすごく平たく言うと 言い訳 です。
最初にお伝えしますが、言い訳 は悪い事ではありません。
自分の非合理な行動や心の動きを自分自身で納得させるための自分を守る心の動きで、誰もが経験をしている事だと思います。
すっぱい葡萄 で有名な話なのですが、
キツネがぶどうを取ろうとしたが、手が届かずに取ることが出来なかった。
その時、「あのぶどうは酸っぱいのさ!」とする。
この様な心の動きです。
自分を守るために、無難な中に身をおいたり、
今までそうだから と慣習に従ったり、
誰かの評価を気にしたり、
自分の立場を守ったりするために
人はあらゆるところで 合理化 を行う事があります。
人は、この合理化を習慣的に行い続けているうちに、「反応」の癖につながっていくことがあります。
本当に欲しいものが出来た時、本当にどうしたいのか を自分に問うた時に、合理化の癖があたかも本来の自分の意志であるかの様な答えとなって、自分の中に出てくるかもしれません。
かかわらなければ路傍の人。
関わりたくない事に関わる必要は、全くないと思います。
ただ、自分の人生に意味ある事に関してまで、路傍の人 になる必要はなく。。。
あらゆる事象を自分事として考えた時に、自分なりの 合理化が抜けた 答え が 自分の中でわいてくる。
その時に、傍観者 から 自分の人生に積極的にかかわる様になるのではないでしょうか。